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WORSHIP · 2026.09.27

立っていると思う者は、
倒れないように
気をつけなさい

倒れた時こそ、言い訳ではなく神のもとへ。

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OVERVIEW

倒れた時こそ、神のもとへ立ち帰る

「自分は大丈夫」と思っている時こそ、足元に気をつける。この礼拝メッセージでは、荒野を歩んだイスラエルへの警告から始まり、エサウとダビデの歩みを対比しながら、失敗そのものよりも、その後にどう神の前へ戻るのかが語られます。

自分の過ちを正当化して憎しみを抱え続けるのではなく、罪を認め、悔い改め、神のもとへ立ち帰る。最後は詩篇51篇のダビデの祈りへとつながります。

MESSAGE KEY · コリント人への手紙 第一 10章12節
「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」

※上の短い引用は、この礼拝メッセージ中で語られた表現です。文字起こしは下部に掲載しています。

TRANSCRIPT

礼拝メッセージ文字起こし

音声文字起こしをもとに、フィラー、重複、音声認識による明らかな誤りを整理し、説教の流れと内容を保ちながら読みやすい文章に整えています。
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1. 導入――言葉は違っても、神の言葉は一つ

先週、自分の教会のYouTubeを久しぶりに見てみたんです。僕は東京弁で話しているつもりなんですけど、もう完璧に沖縄の訛りですね。「皆さん、よく理解できるな」と思いました。関西弁もあれば東北弁もあるし、まあいいかなと思います。言葉は違っても、神の言葉は一つです。今日も皆さんとともに、みことばを分かち合っていきたいと思います。

今日のタイトルは「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」です。先ほど読んでいただいたコリント人への手紙 第一10章1節から12節までからお話しします。

02

2. 荒野の警告――偶像礼拝、姦淫、主を試みること、つぶやき

1節から10節には、モーセとともに荒野を歩んだイスラエルの民のことが書かれています。その40年の間に、どのようなことで人々が倒れていったのかが記されています。まず偶像礼拝です。偶像礼拝とは、神様よりも大事にしてしまうものです。お金であったり、名誉であったり、いろいろなものが偶像になり得ます。私たちは神様を第一として礼拝するわけです。

それから姦淫、主を試みること、そしてつぶやきについても書かれています。イスラエルの民はマナやうずらが与えられても、やがてそれに飽きて不平を言いました。私たちも、空気を吸えること、水を飲めることさえ当たり前ではない。今日も水が飲めることを感謝する。そうやって、すべてのことについて神様に感謝することが大切だと思います。

荒野とは、今の社会にも重ねられると思います。誘惑や攻撃、理不尽なことがたくさんある。クリスチャンとして生きていく上でも、試練はあります。試練のないクリスチャンは一人もいないと思います。

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3. 「倒れないように気をつけなさい」――信仰への油断

今日は特に11節、12節からお話ししたいと思います。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」。自分はイエス様を信じて長いから、信仰が試されても決して倒れることはないと思う人もいるかもしれません。でも、まさかと思う人が倒れていくことがあります。その時に私は、この聖書の言葉を思います。

私たちにはさまざまな誘惑があります。「これくらいなら大丈夫」と思っているうちに、いつの間にか大切なものから離れてしまうことがある。今日は聖書の中から、一度倒れた後に神のもとへ立ち帰った人と、そうしなかった人について見ていきたいと思います。

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4. エサウ――一杯の食事と長子の権利

一人目はエサウです。アブラハム、イサクと続き、イサクの長男として生まれたのがエサウでした。弟はヤコブです。創世記25章には、狩りから帰ってきて空腹だったエサウが、ヤコブの作っていたレンズ豆の煮物を求め、その代わりに長子の権利を譲ってしまう出来事が記されています。

たった一杯の食事のために、自分に与えられていた大切なものを軽く扱ってしまった。私はここに、「恵みが当たり前になる」危険を見るんです。最初の世代は、信仰のために多くの戦いを経験することがあります。ところが二代目、三代目となると、神様がいることも、礼拝できることも、恵みも、いつの間にか当たり前になってしまうことがある。エサウにとって長子の権利も、そんなふうに軽く見えるようになっていたのかもしれません。

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5. 恵みを「当たり前」にしない

アブラハムは、神様の恵みを一つ一つ恵みとして受け取っていた。でも、受け継いだものが最初からあると、それが当然に見えてしまうことがあります。礼拝も、神様の存在も、「あって当たり前」になってしまう。

一方、ヤコブは長子の権利を非常に重要なものだと考えていました。エサウは後になって祝福を求めますが、すでにしてしまった決断の重さに直面します。大切なのは、自分の失敗を認めて神様の前に悔い改めることです。そしてもう一つ、人を赦すことです。

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6. 赦さない心が残すもの

エサウはヤコブに対して強い怒りを持ちました。説教では、エサウとヤコブの子孫の対立にも触れながら、憎しみを次の世代へ渡してしまうことの怖さが語られました。憎しみは対立を生み、人との関係を壊し、自分自身をも傷つけます。

今でも、遺産相続などをきっかけに、兄弟や親族の関係が壊れてしまうことがあります。お金を分けたら終わりではなく、その後も怒りやわだかまりが残ることがある。だからこそ、赦すこと、そして自分の側の過ちを認めることが大切です。

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7. ダビデ――バテ・シェバとウリヤ

もう一人は、イスラエルの王ダビデです。羊飼いの少年だったダビデは、サムエルによって油を注がれ、やがて王になりました。第二サムエル記11章には、ダビデがバテ・シェバを見て、彼女が部下ウリヤの妻だと知りながら関係を持ったことが記されています。

バテ・シェバが身ごもったと知ったダビデは、それを隠そうとします。戦場にいたウリヤを呼び戻し、家へ帰らせようとしました。しかしウリヤは、仲間が戦っている中で自分だけ家に帰ることをせず、その計画はうまくいきません。

追い詰められたダビデは、ウリヤを最前線に置き、戦いが激しくなった時に周囲を退かせるよう命じます。ウリヤは戦死し、その後ダビデはバテ・シェバを妻にしました。人には隠せたと思ったかもしれない。しかし、神様は見ておられました。

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8. ナタンのたとえ――「あなたがその男です」

第二サムエル記12章では、預言者ナタンがダビデのもとへ遣わされます。ナタンは、一人の富んだ人と、一匹の小さな雌の子羊しか持たない貧しい人の話をしました。富んだ人は自分の羊を使わず、貧しい人の大切な子羊を取り上げて客のために調理した、と。

羊飼いだったダビデは、その話を聞いて激しく怒ります。自分自身が羊を大切にしてきたからこそ、その貧しい人の気持ちが分かったのでしょう。そしてナタンは言います。「あなたがその男です」。

ダビデは、人をごまかすことはできても神をごまかすことはできない、という現実に向き合わされました。信仰の勇者として知られ、神様を愛し、多くの賛美をささげてきたダビデでさえ、一度の判断から大きな罪へと進んでしまった。ここに、私たちへの警告があります。

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9. ダビデの悔い改め――言い訳をしない

しかしダビデの大切なところは、ナタンに罪を指摘された時、言い訳をせずに自分の罪を認めたことです。「その通りです」と、神様の前に悔い改めた。ここが大切です。

人は失敗した時、自分を正当化したくなります。「こういう事情があった」「相手にも原因があった」と言いたくなる。でも、それだけでは悔い改めになりません。エサウは自分の選択を「奪われた」と捉え、ヤコブへの憎しみを強くしました。一方、ダビデは自分の罪を認めました。この違いを見てほしいと思います。

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10. 罪を放置せず、神のもとへ帰る

コリント人への手紙 第一10章には、荒野で起こったことが私たちへの教訓として書かれたとあります。そして「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と続きます。人は自分の欲に引かれて誘惑され、罪をそのままにしておくと、霊的に腐敗していく。だからこそ、神様は悔い改めを求めておられるのだと語られました。

イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、清められる。倒れたとしても、ダビデのように立ち上がって、神様のもとへ帰ってきてください。人には失敗があります。私にもたくさんあります。でも、失敗したまま離れていくのではなく、悔い改めて立ち帰ることが大切です。

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11. 悔い改めがもたらす平安

悔い改めた後、心が軽くなって、平安が与えられた経験を話しました。教会から帰る時、歩くより走りたくなるほど嬉しかったことがありました。それくらい、悔い改めは人をもう一度神様の前に立たせてくれる。

神様は人を生かしたいと願っておられる。だから、小さなことでも気づいたなら、すぐ神様のもとへ立ち帰ってください。赦しを受け、新しくされ、内側からもう一度歩き始めることができます。

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12. 詩篇51篇――清い心と、揺るがない霊

最後に詩篇51篇を読みます。ダビデの悔い改めの祈りです。「神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください」と祈ります。そして、救いの喜びを返してください、と願います。

倒れないことだけを誇るのではなく、倒れた時にどうするのか。自分を正当化するのではなく、神様の前に戻ること。今日のみことばを、私たち自身への教訓として受け取りたいと思います。お祈りいたします。

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